増田賢治さん、3月21日永眠
弔辞
中野 修
今、僕は淋しさと悲しみに打ちひしがれています。
先週15日の金曜日、藤田さん、衣笠さん、つれあいと4人で増田さんのお見舞いに行きました。増田さんは緩和病棟に移られ、3階ロビーでおつれあいの修子さんとともに待っていてくださいました。
その会話の中で、私のつれあいの育子が「増田さんの眼には力がある、私の母も眼力が強く95歳まで長生きしました」と言うと増田さんは照れ臭そうに笑われました。そして別れ際エレベーターの前で増田さんは握手を求められました。その手は暖かく力強いものでした。この時、私は幾多の困難な壁を越えてきた増田さんは、今度も山を越えられるのではないか、希望をもちました。
それから6日目の21日の朝、島野さんから「増田さんが亡くなられた」との連絡が入りました。その時、僕は言いようのない虚脱感に襲われました。希望を打ち砕かれたのでした。
増田さんとの出会いは30数年以上も前、労使協調の連合へ雪崩を打つように傾斜していく単組執行部に反旗を翻した大阪府下の仲間とともに、教組交流会を立ち上げたときです。そして主任制反対闘争、連合加入反対闘争を積み上げ、教育合同の結成に到達しました。
増田委員長、山下書記長を先頭とする組合体制で数々の闘争に勝利しました。その中で悲願ともいうべき勝利がありました。地公法上の職員団体から、学校に働くすべての労働者を網羅し、かつ団結権、団体交渉権、スト権を行使しうる労組法上の労働組合の地位を勝ち取ったことです。日教組が想像すらできなかった快挙です。この闘いの牽引者が増田さんでした。教育合同の今はこの延長線上にあります。そして増田さんは大阪全労協にも、学校労働者の全国組織、全学労組の代表者として足跡を記しました。
しかし、私たちは未曽有の反動攻勢に直面しています。安倍政権による政治の劣化、社会の劣化、労働運動への弾圧です。労働者の総力を挙げて立ち向かうべき時です。まだまだ増田さんの存在が必要でした。
しかし、しかし希望も力強く存在しています。増田さんが亡くなられたことを私はFACEBOOKでお知らせしました。そうすると、教育合同の次期委員長の増田俊道さんが次のようなコメントを寄せてくれました。
それは、「3月3日に病院にお見舞いして話ができたのが最期でした。増田賢治さんたちが立ち上げた大阪教育合同労働組合、今年で30年目です。私たちが引き継いで行きます。ゆっくりお休みください。」
これが何より増田さんに贈る言葉です。次の世代が私たちを越え闘いの第一線に立っています。増田さんが労働運動にかけた意思を継承すると言ってくれています。増田さんに安心してくださいと言いません。言えません。ただ天上の世界から若いみなさんの闘いを見守ってください。
闘病生活は大変だったと思います。しかし、修子さんをはじめご家族のみなさんの献身的な看護のうちに逝かれた増田さんは幸せ者です。家族、教え子に対する愛情と労働運動への貢献に対するご褒美です。増田さん、それを胸に抱いて逝ってください。
増田さん、長い間、お世話になりました。ありがとうございました。
弔辞
先生の美しい板書に、憧れを抱いた
辻村修太郎
増田先生、まっさん。
三年間、ヤマヒでお世話になりました、辻村です。
大変ご無沙汰しております。なかなか、お会いできる機会がなかったのですが、年賀状やフェイスブックでご活躍の様子を拝見しておりました。ご家族やお孫さんたちに囲まれ、良きおじいちゃんをしながら、あの頃と変わらず、社会に対して、メッセージを発信しておられるなぁと。お元気だなぁと。拝見しておりました。
実は僕たち、今年で三十になりました。早いものですね。先生と出会ったのが、十三の時でしたから。今年は十年振に、大きな同窓会をしようと話しています。もちろん、先生たちも一緒ですよ。いまになって先生に聞いてみたい話がたくさんあります。お酒も一緒に飲みたいです。
あの頃の仲間とは、いまでもよく集まります。割とみんな、あの辺りの居心地がよくて、山田を離れてないみたいですよ。いろいろとグループはありますが、それぞれよく集まっているようです。
みんなで集まればいまだに、当時の好きな人の話で盛り上がります。
カラオケに行けば、合唱コンクールの歌をみんなでなつかしく歌います。
飲みすぎると、昔話に火がつき、喧嘩になったりもします。
あの頃は、本当に楽しく、本当に幸せな日々でした。
今すぐにでも戻りたいです。
今になって思い返すと、そんな幸せな日々は、先生と私たちとの信頼関係のもとに成り立っていたのだろうなぁと思います。
自分たちで考え、実行すること。何事も楽しむこと。仲間を大切にすること。
先生につくっていただいた環境に応えられるように、私たちはあれだけ一生懸命に取り組んだのだと思います。沖縄の修学旅行も、受験前の合唱コンクールも、先生の理科の授業も。
先生と過ごした三年間を通して、恊働することの素晴らしさ、煩わしさ、その煩わしさを乗り越えた先の、達成感や幸福感を知ることができました。
そして、その経験は今でも、私たちの身体に漲っています。
私たちの経験は特別なものだったのかもしれない。私たちが、あたりまえに知っていたことが、そうでないと気づいたのは、社会に出て、歳も三十に近づいてきたからなのかもしれません。
だとすれば、私たちの役割は、私たちにできることはなんでしょうか?
一人でも多くの仲間をつくり、自分で考え、自分たちが楽しんで生きる社会を、自分たちでつくること。
先生、今まで大変お世話になりました。最後まで、私にこのような機会を与えてくださり、本当に感謝しています。先生に教えていただいたことを胸に、これからも、生きていきます。
先生も少しお休みになられたら、また一緒になって、生きてください。
弔辞
島野正通
増田賢治さん
覚悟していたとは言え、
あまりの突然の旅立ちに呆然自失の状態です
この三月のはじめに
彩都の友鉱会病院に伺ったとき
ソファの横に座っていた私に
別れ際
声をふりしぼるように
あかんなと一言おっしゃいました。
その言葉を聞き
闘病生活の苦しさとともに
最後のお別れの言葉だと受け取りました
慰める言葉を失いました
ただ祈るような気持ちで数日を過ごしました
増田賢治さん
あなたと出会ってから
もう40年の年月が経ちました
私が運動を通して知り合った活動家は
数えることができないほどたくさんおられます
しかし、
増田賢治さん
教育運動、労働運動を通して
心底
気心を通わすことができたのは
あなただけでした
それは、決して私だけではなく
昨夜のお通夜、
そして、今日の告別式に参列された
吹田の仲間たちも
大阪の仲間たちも
全国の仲間たちも
あなたの教え子たちも
立場をこえて
同じことを感じておられると思います
まさに、余人をもってかえがたい
理論家であり
運動家であり
温情にあふれた
増田賢治さんでした
増田賢治さん
あなたとの思い出は
語りつくせないほどあります
C型肝炎の完治が医者から告げられたその夜
落ち着いた料理屋で祝いの席を取ってもらい
我が事のように
島野くん
良かったなぁ、
これから遠慮なく飲めるなぁ
うまい焼酎のお湯割りをつくるから飲んでくれと
喜んでいただいたこと
昨日のようにを覚えています
弟のように可愛がっていただいたこと
これからも大切にしてに生きていきたいと思います
増田賢治さん
あなたは
彼岸の3月21日早朝
帰らぬ人となりました
しかし
私たちは
この3月21日が
めぐりめぐって来るときに
増田賢治さん
あなたが
教育運動、労働運動に残した功績を思い起こし
優しくおおらかに
人の話に耳を傾けて
家族を大切にしてこられた生きざまを
私たちは決して忘れません
静かにおやすみください
さようなら
今度会ったときは
体のことを気にしないで
カラオケを歌いながら
思いっきり酒を酌み交わしましょう
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